火の見櫓 [街歩き]
桜田通り(国道1号)明治学院前交差点から第一京浜(国道15号)方向に坂を上っていくと、最近見られなくなった火の見櫓のある現役の消防署・高輪消防署二本榎出張所(昭和8年完成)が見えてきます。
私の子供の頃は、消防署といえば”火の見櫓”は付きものだったのですが、最近ありませんね・・・
火の見櫓。。。
車庫の中には 『ニッサン 180』 のプレートの古い消防車がありました。
東博 [街歩き]
東京国立博物館「ほほえみの御仏」展に行ってきました。去年の「鳥獣戯画展」以来かな~~
日本と韓国の国宝、二体の半跏思惟像の競演(?)でした^^
奈良、中宮寺門跡の半跏思惟像は微笑みをたたえた優しいお顔で癒されました。
上野公園噴水池から
初めて知ったのですが・・・東博本館の裏にすてきな庭園がありました
日本と韓国の国宝、二体の半跏思惟像の競演(?)でした^^
奈良、中宮寺門跡の半跏思惟像は微笑みをたたえた優しいお顔で癒されました。
上野公園噴水池から
初めて知ったのですが・・・東博本館の裏にすてきな庭園がありました
タグ:東博 半跏思惟像 上野
こんにゃくえんま [街歩き]
義士洗足の井戸 [街歩き]
時期外れですが、前回と忠臣蔵つながりで・・・
虎ノ門のニッショーホール(日本消防会館)正面入り口の裏手に「義士洗足の井戸」がありました。
銘板には「元禄のころ、このあたりに大目付、仙石伯耆守の屋敷があり元禄15年12月15日朝、大石良雄以下47名の赤穂浪士が、本所吉良邸に討ち入り主君浅野内匠頭の無念を晴らし武士の本懐を遂げた。吉良邸を引きあげて芝泉岳寺にある主君の墓前に向かう途中、大石良雄は部下2名の者を仙石伯耆守邸に差し向け自首させた、その際に両名の義士は邸内の井戸で洗足して座敷にあがったと言う。この史実をもとにこの井戸を作り後世にあまねく伝承するものである」とあります。
(この2名は副頭領格の吉田忠左衛門と富森助右衛門だと言います)
あれ!こんなところに・・・ [街歩き]
赤坂の裏道を歩いていて港区立赤坂子ども中高生プラザ(港区赤坂6-6)の建物の片隅に『勝安房邸跡・勝海舟伯終焉ノ地ナリ・昭和5年12月・東京府』と刻まれた石碑を見つけた。
銘板には「この地は幕末から明治にかけて幕臣として活躍した勝海舟が明治5年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です」とあります。
勝海舟さん晩年、赤坂に住んでいたのですね・・・
タグ:勝海舟 幕末
登録有形文化財 [街歩き]
新橋の外堀通り沿い角地に重厚な古めかしいビルがありました。「堀商店」と看板があり、近代的なビルが立ち並ぶ中、目を引かれた。
ショーウィンドーにはランプ、ドアノブなどに混じって『登録有形文化財』のプレートが置かれていた。
タグ:新橋 登録有形文化財
レモン哀歌の碑 [街歩き]
前回の『ゼームス坂』途中のドラッグストアからJR線路方向へ道を50m程入ると右手に高村智恵子の記念碑「レモン哀歌の碑」があります。
ここは詩集「智恵子抄」で有名な高村光太郎の妻、智恵子の終焉の地です。
高村光太郎は彫刻家、高村光雲の長男として東京で生まれ彫刻家、詩人として活躍しました。その妻智恵子は福島県二本松の裕福な造り酒屋の長女として生まれ、日本女子大学卒業後、絵画を学ぶうち光太郎と知り合い大正13年(1914年)に結婚しました。
智恵子は父の死や実家の没落などで次第に精神を病むようになり、光太郎は看病に専念しましたが病状は進む一方で昭和10年(1935年)にはゼームス坂病院に入院し3年後に52歳の生涯を終えました。
ゼームス坂病院は戦後間もなく取り壊されてしまいましたが1938年智恵子が亡くなる数時間前にレモンを口に含んだ時の様子が光太郎の詩『レモン哀歌』に見事に描かれています。
石碑は、高さ150㎝で推定される智恵子の背丈に合わせたと銘板にあります。
石碑足元の銘板